暴言暴力によるストレス解消と理想生活

先日SNS東京弁護士会所属のとある弁護士から馬鹿だのなんだのと暴言を吐かれた。そのときは自分も攻撃的な感情でSNSに触れていたものだから、自業自得ではあると思った。君子危に近づかず。それを破りヤバい人間に絡みに行った自分の落ち度という意味だ。

そこでしばらくショックだったりイライラしていたが、しばらくすると治ってきた。その件について東京弁護士会に苦情を入れてみたが、弁護士業務中ではないので管轄外というか軽くあしらわれるような扱いであった。記録に残す目的だったので、二次被害的にイライラしたが、これもまた身から出たサビだ。

類は友を呼ぶというか、引き寄せの法則というか、自分が嫌な奴になってると、嫌な奴しか寄ってこない。この件はもう終わりにして忘れたいと思ったところだ。

そもそも、ネット上で論争したりするのは現実世界で解消できないストレスの吐け口という意味合いが強い。より具体的に言うと、現実の仕事の上司や取引先、もしくは家族などの身近な相手方に対して言うべきことを言えずに我慢したり、受け止めてもらえなかったりというコミュニケーション上の問題を、ネット上にすり替えて仮想敵を作り、安全地帯から正論で攻撃することで日頃の鬱憤を晴らしている。

日常生活で適切にコミュニケーションが取れれば、ネット上の暴言や誹謗中傷は減るだろう。自分に置き換えるのなら、ネットではなく現実の仕事で言うべきことを言い、粘り強くコミュニケーションをとる努力をすることだろう。その努力を放棄すれば、ネットで手軽に相手を否定したり攻撃したりする不毛な行為に走ることになる。それは自分に返ってくるからもうやりたくない、やらない。

さて、先ほど部屋に小さな虫が入ってきた。殺生は避けているが、やむを得ず潰してしまった。なぜだろう、ふっと気分が軽くなった。自分より圧倒的に弱い生命を踏みにじることで、自分に力があるのだと、自分はちゃんと生きているし、その力があるのだと、そんな気分にさせられた。自分に自信が持てた。

これだ、と思った。自分より弱いもの、弱いと思うもの、間違っているものを安全地帯から攻撃して叩き潰すことで自分に自信を持とうとする。SNSの誹謗中傷や論争は人間の生存本能に根差した闘争本能なのだ。しかも完全に間違ったやり方の。

もう間違ったやり方で生存を実感するのではなく、正しいやり方で生存を実感しようと思った。人として当たり前の生活や生き方。子どもに恥じない真っ当な生き方を。

感動中毒 幸せは平凡に宿る

2024年パリオリンピックが人気を博している。スポーツの感動や驚きを今更語る必要はないが、スポーツの弊害や不幸に目を向ける人は多くない。

 

スポーツの負の側面として人を不幸にする。オリンピックアスリートやプロスポーツ選手、トップを目指す子供たちまで、過度なトレーニングで心と体を壊す。女性であれば生理が止まる。反則技で怪我をおわせる。ストレスから犯罪や非行に走る。監督やコーチによるパワハラ、セクハラ、性犯罪。女性アスリートへの盗撮。ファン同士のいがみ合いや暴力行為、破壊行為。業界団体の不正や裏金。不公正なレフェリング、スポーツの政治利用。数え始めたらキリがない。

 

スポーツで感動、子供に夢を与える。それは結構なことだが、その裏で多くの人間が苦しみと絶望を経験している。これらはあまり語られることはない。

 

スポーツを頑張り向上を目指すのは良いことだが、人間は限度を知らねばならない。人間の限界を超えようとするのは結構なことだが、それがもたらす負の側面にも気を配る必要がある。

 

もし本当に幸せになろうと思うのなら、世界のトップを目指すのではなく平凡であるべきだ。

 

世界のトップになるのであれば、人間らしさや幸福を手放してまで心からそうなりたいのか、よく考えることだ。

 

そして、その試練を超えて、幸福を捨ててまでトップを目指し、幸福な凡人たちに束の間の夢を与えてくれる彼らには、最大限の賛辞と金銭的対価が与えられるべきであろう。

 

これはスポーツに限らない。芸能などもそうだ。産業界もそうだろう。私たち労働者もその構造に組み込まれている。過ぎたるは猶及ばざるが如し。幸せに生きたいのなら、これを自覚して、ほどほどに平凡に生きるべきだろう。

先生の白い嘘 虚構と現実の狭間で

先生と白い嘘という漫画が映画化された。インティマシー・コーディネーター(IC)という性的シーンにおいて俳優を守る専門家を撮影に入れて欲しいという俳優サイドの要望を監督が断ったことで炎上中だ。

 

原作を読んだが素晴らしい。映画はまだ観てないが、既に胸糞悪い。作品の内容が、ではない。

①監督によるIC要望拒否

②映像化にあたっての原作者の受け身な姿勢(すでに反省コメントが出ている)

③俳優の気丈な振る舞い

 

この三要素が原作漫画で描かれている主人公、美鈴がレイプ加害者の早藤に抑圧され続ける救われない日々と重なって見えてしまうのだ。

 

強い者によって、弱い者が一方的に蹂躙され、搾取される。原作ではこの弱肉強食の関係性が美鈴の成長により変化し、早藤にも更生の道を示すような希望のある展開となっており、そこが秀逸であり、希望である。

 

制作陣にはこれを真っ当に心から真摯に描き切って欲しかった。しかし、どう考えてもそう思えない。思わせてはくれない。そこが悲しいし、苦しいし、怒りを覚える。現実はやっぱり理不尽で私たちは無力なのだと思い知らされる。

 

①について、なぜこの監督なのか。IC拒否以外にも理由はある。出演依頼を10人に断られ、「はぁ、主演はれる度胸ある女優どこかにいないかなぁ。。。」とTwitter、Xでボヤき、出演を断る女優は度胸がないともとれる発言。そうだ、度胸が求められるのは心身を削って演技する俳優だ。監督は現場の最高権力者として、自らの創作意欲を俳優にぶつけるだけなのだから。この構図、主従関係。うーっ、気持ち悪くなる。

この監督は10年前に原作に惚れ込み映像化を決めたと言うが、その頃はまだ完結しておらず、この作品が描こうとした本質は原作者意外、全く見えていない。それなのに、この監督は作品の何に惚れ込んだ?レイプ被害者がレイプされることをきっかけに性に目覚め、加害者に呼び出されるまま性に溺れた?そういう解釈だとすれば、それこそ原作者がもっとも否定したかった誤った解釈ではないのか。

この作品は性にオープンであろうとか、性の目覚めとか、やくあるそういう類のものではない。性や性欲は人間の本質、本能であり抗えないものでありつつ、その本能的な性を圧倒的な強者によって蹂躙されることによる自尊心の破壊。それにより生まれた性と自己とのギャップというか、ズレというか、歪み。そこに苦悩し、目を背け、そして向き合い再生する物語なはずだ。そこに希望があった。鋭い洞察と偉大なる可能性の提示があった。それがどうだ。「ICはいらない。直接話せば伝わる。正直僕は男だから主人公の美鈴の気持ちが理解できない」監督がその程度の思いで、理解度でこの作品に向き合おうとしたのが許せない。

 

②原作者の受け身な姿勢について、要はお任せだったわけだ。セクシー田中さん事件も記憶に新しいが、映画監督やドラマ脚本家などの権力者には原作者といえども逆らえないという暗黙のルールがエンタメ業界にはあるように思う。本作も例外ではないだろう。原作者を責めたいとは思わない。漫画ってのはスーパーヒーローが大活躍して悪を懲らしめるから面白い。主人公、美鈴のように加害者に反撃できる人間はほんの一握りであって、大多数の被害者は泣き寝入りするしかない。しかし、この漫画原作には被害者を勇気づけ、癒し、希望を与える力があった。今もこれからもだ。ただ、今回の映像化にあたってのトラブルが水を差した。「現実はそんなに簡単じゃない。」何者かによって漫画の最後にそう書かれた気分だ。誰だよ、胸糞悪い。

ICの件は確かに当時というか今でも一般的ではない。そもそも日本人のICは数人しかいないらしい。制作サイドの言い分もわかる。だからこれ以上言い訳するな。多くの人が憤っているのは、嫌悪するのは、IC云々ではなく、そこから滲み出る強者の理屈そのものだ。「何かあったら何でも言って」「最終的に本人の意思で引き受けた」それこから滲み出る強者の理屈に嫌悪を抱く。

映画のストーリー解説にはこうある。

「 早藤を忌み嫌いながらも、快楽に溺れ、早藤の呼び出しに応じてしまう美鈴。」

ここから「快楽に溺れ」の文言がカットされた。この時点で制作陣がこの物語の本質を何ら理解していないことが明白となった。そりゃそうだ。監督の態度、姿勢を見れば合点がいく。

とある映画感想コメントを読んで納得したのだが、これは快楽に溺れているのではなく、以下引用、

「 主人公は求められたら応じていて、自ら体を差し出してるんだけど、それは快楽じゃないんですよね。トラウマを追体験したくなってしまう。情け無い自分を再確認したくなってしまうんです。」

というコメントであった。心をチクリと刺すような痛み。コメント一つで分かる。本質を理解している者とそうではなく表面上しか見ていない者の違い。

「快楽に溺れ」?笑わせるな!いや、笑えない。涙が出てくる。ほんと最悪。

 

③俳優である奈緒さんは「私は大丈夫です」としきりにアピールし皆を不安にさせないよう気丈に振る舞う。そりゃそうだ。ここで自身が権力の被害者に仕立て上げられれば、何のための映画?誰のための映画?原作者、原作ファン、今も性に苦しむ人たちを裏切る行為になりかねない。そんなことできるはずがない。真実はわからない。しかし、そう思うことは不自然ではない。

未だかつて、大丈夫という人が本当に大丈夫であったことなどない。憶測で物を言うなと怒る人がいるが、確かにと思う反面、そうやってこれまで弱者は声を上げられずに理不尽に蹂躙されてきた過去、セクシー田中さん事件、映画監督や芸能界による性加害問題を前に、その批判は浅すぎる。軽すぎる。

 

奈緒さんと美鈴が重なって見える。見えてしまう。これは本来、最も避けねばならない事態である。外からそう見えるだけならまだマシかもしれない。役者本人がそう思い始めたとしたなら最悪の事態となる。インティマシーコーディネーターは役と役者を同一化させずに切り分けるためにも存在する。現にハードな役を演じて役と同化して精神なダメージを負う俳優はおり、そうならないよう心のケアをする必要があるという。話は戻るが、今回それがなられず不十分であったわけだ。

 

ここまで思ったことを書いてきた。監督は自身の認識の甘さや歪みを反省して欲しいし、それを伝えられる大人がきちんと彼に伝えてあげるべきだ。謝罪コメントでは自身の「不用意な発言」に対して反省をしており、問題の本質が全く分かっていない。そこじゃないから。

奈緒さんをはじめとする俳優陣に対しても大丈夫で済ませず周囲が積極的にケアをしてあげるべきだ。

#先生の白い嘘

町田ゼルビアが嫌われる本質とリスク

勝つためにズルいことをする選手はどこにでもいるが、勝つためにズルいこと組織的に推奨するチームは町田ゼルビアと黒田監督が初めてだと思う。

 

正々堂々やスポーツマンシップという日本人的な価値観に真っ向から反発する勝利至上主義こそが町田ゼルビアの圧倒的強さであり多くの人から嫌われる根源でもある。

 

もちろん町田は悪ではない。監督も選手も悪人ではない。グレーはグレーであり黒ではない。ルールの範囲内でやってるだけだ。彼らはサッカーが好きで誰よりも勝ちたい。ただそれだけ。純粋なんだと思う。

 

でも、純粋さはときに恐ろしい出来事を引き起こすことを思うと僕は少し怖い。グレーと黒との線引きは最悪の出来事を境に一変することがある。

 

先日、町田ゼルビアのある選手が、勝利した試合の自身のワンプレーを自慢げにメディアに語っていた。そのプレーはフリーキックの蹴る位置を審判の目を盗んで少しずらしたというもの。ルール違反といえばそうだが、世界中で当たり前に行われている程度のグレーゾーンの話。

だけど、町田ゼルビアのその選手は自分の口で、それを自慢げにメディアに語る。そんな選手はこれまで見たことも聞いたこともない。

 

グレーゾーンの決して褒められるべき行為ではないプレーを、自慢げに、褒めてくれと言わんばかりに公に語るその純粋さ。勝つためならルールの範囲で何をしても良いという執念は監督由来であり、監督を通じてチームの全選手へと浸透させられる。

 

町田ゼルビアは栄光の道を進んでいると同時に、極めて危険な細い一本道を進んでいる。組織的に行われるグレーゾーンの行為は、大きなリスクを孕んでいる。

 

町田ゼルビアの在り方と行いは日本のサッカー界を変える力がある。それは良くも悪くも、どちらにでも転ぶ可能性とリスクを秘めている。

 

青森山田高校サッカーでは顕在化しなかったもののプロの世界でいよいよその本質、つまり勝利至上主義とグレーゾーンの組織的活用がサッカー界、スポーツ界に変革を迫っている。

 

このチームの行く末を傍観しようと思う。

僕が新卒で入ったブラック企業がやっぱりすごい

僕が新卒で入ったブラック企業は固定残業制だった。無知な学生の僕は固定残業代が払われてるから、いくら働いても月給は変わらないと思い込み、入社2年目ですでに毎月100時間超のサービス残業をしていた。

もう退職して数年が経つのだが、最近の働き方改革や賃上げのニュースもあり、たまに今どんな感じかなーと思ってホームページをのぞいたりする。「初任給28万円。固定残業代を含む。」ふむ。固定残業なのは変わってないけど、初任給は上がっていた。僕の新卒時は初任給23万円に固定残業が含まれていたから賃上げされてるんだなと、しみじみ時代の良い変化を感じていた。

のであるが、それはまたしても見せかけの詐欺にも近いやり方であった。なんと、賞与が夏も冬もナシになっていたのだ。つまり、初任給をはじめとする月収を引き上げた代わりに賞与をカットして年収を変えずに採用競争力を高めようとしているのだ。うーん、うーん?やっぱりこの会社は普通じゃない。ボーナスは支給されて当たり前という盲点をついた無知な学生を狙った求人詐欺であるし、仮にそこを突っ込まれても期末賞与があるというかわし文句で丸め込むのだろう。もちろん、期末賞与なんてのは、圧倒的なとんでもないノルマを達成した者が同期に1人いるかどうかで、死ぬ気で残業して達成しても10万もらえたら良いくらいの学生騙しだろう。人も会社も簡単には変わらないんだなぁ。やっぱり辞めてよかったと再度認識した。こういう会社に学生や無知な若者が騙されないように、僕は新しいキャリアを進もうと思った。

母の日。幼少期の甘え経験と大人の憂鬱、そしてリスタート

今日、2024年5月12日は母の日だ。母親に日頃の感謝の気持ちを伝え、カーネーションやプレゼントを贈るイベントである。

母親との最も古い記憶はいつだろうか。まだ幼稚園生だったかと思う。ガンダムのプラモデルを組み立てていて、もちろん一人でできるわけもなく母親に手伝ってもらいながら遊んでいた。その時に母親がうっかり細かいパーツを折ってしまった。それを見た当時5歳にも満たない私は猛烈に激怒した。泣きじゃくり、母親を責め立てたのだと思う。なだめられても一向に泣き止まない私に対して、母親はとうとう私を叱り始めた。当然だ。悪意のないうっかりミスを延々と責め立てるような大人になってはいけないという教育上の考えもあってのことだとは思う。しかし、私の頭の中にあったのは、プラモデルのことでも、母親への怒りでもなく、ただ純粋に母親に甘えたい、よしよしと頭を撫でて、抱きしめてほしいという感情それだけだった。30歳を過ぎたころに、この記憶における当時の感情を言語化するに至ったのだが、それまでは20年以上の間、ぼんやりとそういう事もあったかなくらいに、記憶の奥底に沈殿していたのだった。

私の最も古く、しかし強烈に思い起こされる母親との記憶はこれが始まりのようだ。それからというもの、母親に殊更甘えたり、過度に駄々をこねるということはなくなったと思う。それをするとまた拒否されてしまうという恐れを子供ながらに学習し、聞き分けの良い男の子として育っていったと思う。少し話はそれるが、20歳を超えたころだろうか。両親から、「赤ちゃんの頃から夜泣きもせずに育てやすい子供だった」と言われたとき当時はすごく誇らしい気持ちだったが、いまはその言葉にどこか寂しさを感じる自分がいる。

母親は自分のためなら何でもしてくれた。時間とお金を最大限に投資して、「何でもやりたいことをやらせてくれた」。毎朝早く起きて朝食とお弁当を作ってくれたり、部活の遠征で早朝から車を出してくれたり、お金だってたくさん使ってくれた(もちろんダメなものはダメだと言われたが)。怪我をしたら病院に連れていき、ずっと看病してくれた。きっと、たぶん?私の母親の最大限の愛情表現はハグや甘やかしではなく、立派に成長してこの社会を自由に生きてほしいという願いなのだろうと思う。当時は、いや大人になってからのほうが自覚的に、母親のしてくれた様々な愛情表現に対して、負担をかけてしまい申し訳ないという気持ちになる。ただ、それはそれは負担などではなく(もちろん大変なことに変わりないが)、母親なりの最大限の愛情表現だったのかもしれない。母親の口癖は「自分の好きなようにしなさい」だ。その言葉の意味を、今日母の日の朝に思う。

いつだったか。小学3年生の頃だと思う。まだ母親の隣で寝ていたころ、母親がギュッと抱きしめてくれたのを覚えている。私が寝入ったころか、何も言わずにただギュッと強く抱きしめてくれた。私も何も言わずにただ黙っていた。その時の幸福感というか、脳と体中が、ぱぁー!っとあったかい何かで満たされるような、言葉では言い表せない感覚を、たまに思い出す。一生に一度の体験だった。小学3年生になった私は「お母さん、ギュッとして!」などとは言えるわけもなく、もう立派に分別をわきまえた子供だった。

 

大人になって長い時間がたつ。仕事上のちょっとした失敗や家庭内のコミュニケーションのささいなもつれで、感情がどん底まで落ち込むような絶望感、孤独感を味わう。ここに「甘え」があるのではないかと考える。「自分のことをわかってほしい」「自分を何よりも尊重してほしい」「自分を認めて存在を承認してほしい」という根源的な欲求を、仕事上の上司や同僚、パートナーに押し付け、それが満たされない場合に反動として衝動的に怒りや悲しみ、そして絶望や孤独といった感情を呼び起こしているように思える。

本来、このような自尊心、自己承認欲求の問題は、幼少期に母親に目いっぱい甘えることで満たされるのではにだろうか。幼少期に母親に十分に甘えて、自尊心を十分に養われた人間は、成長とともに母親を一人の人間として尊重し始めるころに感謝とともに甘えを卒業し、反抗期などを経て大人になる。しかし、聞き分けの良い子供を無意識に演じて母親に十分に甘えることができなかった子供は、大人になってからどこか満たされない自尊心や自己承認欲求に対して、それを穴埋めするために様々なアクションを起こし、躍起になる。一時的にうまくいったとしても、ふとしたきっかけでやはりどうしても満たされない感覚に気付き、感情の袋小路に陥ってしまう。

 

もし私のような体験や考え方に思い当たるふしがあるなら、どうしたらよいだろうか。過去は変えられないので、もうどうしようもないと投げ出してしまいたくなる人もいるかもしれない。私もそうだ。しかし、幼少期に甘えられなかったからと言って、おとなになってからも甘えられないわけではない。母親とコミュニケーションは母親死ぬまで終わらない。別に今からでも、いつからでも始められる。リスタートできる。母親との関係性、そして自尊心や自己承認欲求は上書きできる。アップデートし続けられる。「母の日」は毎年訪れるよいきっかけになると私は思う。

共働き時代の育休のあり方

男女平等に共働き世帯なのに、ステレオタイプに縛られて、女性だけが1年間フルの育休や子どもの急なお迎えなどに奔走していないだろうか?共働きであるなら、夫と妻の収入比率、お互いのキャリアパス、キャリアビジョン、会社の支援制度をよく比較して、適切に育休期間や子育て負担を分担する必要がある。

今や夫より妻の方が高収入などということは当たり前にある。夫側がこの点を考えず、ステレオタイプに「男だから育休は取りにくいし、急なお迎えも無理だ」と妻に負担を押し付けるのなら、その家庭は上手くいかなくなる可能性が高いだろう。

確かに男性が育休を数ヶ月以上取ったり、急なお迎えで会社を早退するのはカドが立つ。男性育休がもてはやされているとはいえ、パフォーマンスに過ぎず、男性育休は多くの人の常識に反する。40代以上の管理職や経営層には頭ではわかっていても受け入れられない価値観だろう。

しかし育休でカドが立つのは女性だって同じだ。女性だって子持ち様と揶揄され、肩身の狭い思いをしながら仕事と子育てを両立すべく奔走している。ここで夫側が妻の努力に甘えてしまえば、人も社会も発展しないだろう。

共働き時代の育休は性別ではなくお互いの価値観や収入、キャリアの現在とこれからをよく話し合って決めるのが相応しい。