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町田ゼルビアが嫌われる本質とリスク

勝つためにズルいことをする選手はどこにでもいるが、勝つためにズルいこと組織的に推奨するチームは町田ゼルビアと黒田監督が初めてだと思う。

 

正々堂々やスポーツマンシップという日本人的な価値観に真っ向から反発する勝利至上主義こそが町田ゼルビアの圧倒的強さであり多くの人から嫌われる根源でもある。

 

もちろん町田は悪ではない。監督も選手も悪人ではない。グレーはグレーであり黒ではない。ルールの範囲内でやってるだけだ。彼らはサッカーが好きで誰よりも勝ちたい。ただそれだけ。純粋なんだと思う。

 

でも、純粋さはときに恐ろしい出来事を引き起こすことを思うと僕は少し怖い。グレーと黒との線引きは最悪の出来事を境に一変することがある。

 

先日、町田ゼルビアのある選手が、勝利した試合の自身のワンプレーを自慢げにメディアに語っていた。そのプレーはフリーキックの蹴る位置を審判の目を盗んで少しずらしたというもの。ルール違反といえばそうだが、世界中で当たり前に行われている程度のグレーゾーンの話。

だけど、町田ゼルビアのその選手は自分の口で、それを自慢げにメディアに語る。そんな選手はこれまで見たことも聞いたこともない。

 

グレーゾーンの決して褒められるべき行為ではないプレーを、自慢げに、褒めてくれと言わんばかりに公に語るその純粋さ。勝つためならルールの範囲で何をしても良いという執念は監督由来であり、監督を通じてチームの全選手へと浸透させられる。

 

町田ゼルビアは栄光の道を進んでいると同時に、極めて危険な細い一本道を進んでいる。組織的に行われるグレーゾーンの行為は、大きなリスクを孕んでいる。

 

町田ゼルビアの在り方と行いは日本のサッカー界を変える力がある。それは良くも悪くも、どちらにでも転ぶ可能性とリスクを秘めている。

 

青森山田高校サッカーでは顕在化しなかったもののプロの世界でいよいよその本質、つまり勝利至上主義とグレーゾーンの組織的活用がサッカー界、スポーツ界に変革を迫っている。

 

このチームの行く末を傍観しようと思う。

僕が新卒で入ったブラック企業がやっぱりすごい

僕が新卒で入ったブラック企業は固定残業制だった。無知な学生の僕は固定残業代が払われてるから、いくら働いても月給は変わらないと思い込み、入社2年目ですでに毎月100時間超のサービス残業をしていた。

もう退職して数年が経つのだが、最近の働き方改革や賃上げのニュースもあり、たまに今どんな感じかなーと思ってホームページをのぞいたりする。「初任給28万円。固定残業代を含む。」ふむ。固定残業なのは変わってないけど、初任給は上がっていた。僕の新卒時は初任給23万円に固定残業が含まれていたから賃上げされてるんだなと、しみじみ時代の良い変化を感じていた。

のであるが、それはまたしても見せかけの詐欺にも近いやり方であった。なんと、賞与が夏も冬もナシになっていたのだ。つまり、初任給をはじめとする月収を引き上げた代わりに賞与をカットして年収を変えずに採用競争力を高めようとしているのだ。うーん、うーん?やっぱりこの会社は普通じゃない。ボーナスは支給されて当たり前という盲点をついた無知な学生を狙った求人詐欺であるし、仮にそこを突っ込まれても期末賞与があるというかわし文句で丸め込むのだろう。もちろん、期末賞与なんてのは、圧倒的なとんでもないノルマを達成した者が同期に1人いるかどうかで、死ぬ気で残業して達成しても10万もらえたら良いくらいの学生騙しだろう。人も会社も簡単には変わらないんだなぁ。やっぱり辞めてよかったと再度認識した。こういう会社に学生や無知な若者が騙されないように、僕は新しいキャリアを進もうと思った。

母の日。幼少期の甘え経験と大人の憂鬱、そしてリスタート

今日、2024年5月12日は母の日だ。母親に日頃の感謝の気持ちを伝え、カーネーションやプレゼントを贈るイベントである。

母親との最も古い記憶はいつだろうか。まだ幼稚園生だったかと思う。ガンダムのプラモデルを組み立てていて、もちろん一人でできるわけもなく母親に手伝ってもらいながら遊んでいた。その時に母親がうっかり細かいパーツを折ってしまった。それを見た当時5歳にも満たない私は猛烈に激怒した。泣きじゃくり、母親を責め立てたのだと思う。なだめられても一向に泣き止まない私に対して、母親はとうとう私を叱り始めた。当然だ。悪意のないうっかりミスを延々と責め立てるような大人になってはいけないという教育上の考えもあってのことだとは思う。しかし、私の頭の中にあったのは、プラモデルのことでも、母親への怒りでもなく、ただ純粋に母親に甘えたい、よしよしと頭を撫でて、抱きしめてほしいという感情それだけだった。30歳を過ぎたころに、この記憶における当時の感情を言語化するに至ったのだが、それまでは20年以上の間、ぼんやりとそういう事もあったかなくらいに、記憶の奥底に沈殿していたのだった。

私の最も古く、しかし強烈に思い起こされる母親との記憶はこれが始まりのようだ。それからというもの、母親に殊更甘えたり、過度に駄々をこねるということはなくなったと思う。それをするとまた拒否されてしまうという恐れを子供ながらに学習し、聞き分けの良い男の子として育っていったと思う。少し話はそれるが、20歳を超えたころだろうか。両親から、「赤ちゃんの頃から夜泣きもせずに育てやすい子供だった」と言われたとき当時はすごく誇らしい気持ちだったが、いまはその言葉にどこか寂しさを感じる自分がいる。

母親は自分のためなら何でもしてくれた。時間とお金を最大限に投資して、「何でもやりたいことをやらせてくれた」。毎朝早く起きて朝食とお弁当を作ってくれたり、部活の遠征で早朝から車を出してくれたり、お金だってたくさん使ってくれた(もちろんダメなものはダメだと言われたが)。怪我をしたら病院に連れていき、ずっと看病してくれた。きっと、たぶん?私の母親の最大限の愛情表現はハグや甘やかしではなく、立派に成長してこの社会を自由に生きてほしいという願いなのだろうと思う。当時は、いや大人になってからのほうが自覚的に、母親のしてくれた様々な愛情表現に対して、負担をかけてしまい申し訳ないという気持ちになる。ただ、それはそれは負担などではなく(もちろん大変なことに変わりないが)、母親なりの最大限の愛情表現だったのかもしれない。母親の口癖は「自分の好きなようにしなさい」だ。その言葉の意味を、今日母の日の朝に思う。

いつだったか。小学3年生の頃だと思う。まだ母親の隣で寝ていたころ、母親がギュッと抱きしめてくれたのを覚えている。私が寝入ったころか、何も言わずにただギュッと強く抱きしめてくれた。私も何も言わずにただ黙っていた。その時の幸福感というか、脳と体中が、ぱぁー!っとあったかい何かで満たされるような、言葉では言い表せない感覚を、たまに思い出す。一生に一度の体験だった。小学3年生になった私は「お母さん、ギュッとして!」などとは言えるわけもなく、もう立派に分別をわきまえた子供だった。

 

大人になって長い時間がたつ。仕事上のちょっとした失敗や家庭内のコミュニケーションのささいなもつれで、感情がどん底まで落ち込むような絶望感、孤独感を味わう。ここに「甘え」があるのではないかと考える。「自分のことをわかってほしい」「自分を何よりも尊重してほしい」「自分を認めて存在を承認してほしい」という根源的な欲求を、仕事上の上司や同僚、パートナーに押し付け、それが満たされない場合に反動として衝動的に怒りや悲しみ、そして絶望や孤独といった感情を呼び起こしているように思える。

本来、このような自尊心、自己承認欲求の問題は、幼少期に母親に目いっぱい甘えることで満たされるのではにだろうか。幼少期に母親に十分に甘えて、自尊心を十分に養われた人間は、成長とともに母親を一人の人間として尊重し始めるころに感謝とともに甘えを卒業し、反抗期などを経て大人になる。しかし、聞き分けの良い子供を無意識に演じて母親に十分に甘えることができなかった子供は、大人になってからどこか満たされない自尊心や自己承認欲求に対して、それを穴埋めするために様々なアクションを起こし、躍起になる。一時的にうまくいったとしても、ふとしたきっかけでやはりどうしても満たされない感覚に気付き、感情の袋小路に陥ってしまう。

 

もし私のような体験や考え方に思い当たるふしがあるなら、どうしたらよいだろうか。過去は変えられないので、もうどうしようもないと投げ出してしまいたくなる人もいるかもしれない。私もそうだ。しかし、幼少期に甘えられなかったからと言って、おとなになってからも甘えられないわけではない。母親とコミュニケーションは母親死ぬまで終わらない。別に今からでも、いつからでも始められる。リスタートできる。母親との関係性、そして自尊心や自己承認欲求は上書きできる。アップデートし続けられる。「母の日」は毎年訪れるよいきっかけになると私は思う。

共働き時代の育休のあり方

男女平等に共働き世帯なのに、ステレオタイプに縛られて、女性だけが1年間フルの育休や子どもの急なお迎えなどに奔走していないだろうか?共働きであるなら、夫と妻の収入比率、お互いのキャリアパス、キャリアビジョン、会社の支援制度をよく比較して、適切に育休期間や子育て負担を分担する必要がある。

今や夫より妻の方が高収入などということは当たり前にある。夫側がこの点を考えず、ステレオタイプに「男だから育休は取りにくいし、急なお迎えも無理だ」と妻に負担を押し付けるのなら、その家庭は上手くいかなくなる可能性が高いだろう。

確かに男性が育休を数ヶ月以上取ったり、急なお迎えで会社を早退するのはカドが立つ。男性育休がもてはやされているとはいえ、パフォーマンスに過ぎず、男性育休は多くの人の常識に反する。40代以上の管理職や経営層には頭ではわかっていても受け入れられない価値観だろう。

しかし育休でカドが立つのは女性だって同じだ。女性だって子持ち様と揶揄され、肩身の狭い思いをしながら仕事と子育てを両立すべく奔走している。ここで夫側が妻の努力に甘えてしまえば、人も社会も発展しないだろう。

共働き時代の育休は性別ではなくお互いの価値観や収入、キャリアの現在とこれからをよく話し合って決めるのが相応しい。

 

世の中複雑すぎる。

世の中複雑すぎる。社会の仕組みやルール、そして職場の規則や制度も複雑で分かりにくいし、運用ともなると、もはや訳がわからない。

複雑さは人を忙しくさせる。心を亡くす。余裕が無くなり思いやりが消え、ストレスと防衛反応や攻撃反応が強く出る。

シンプルさを追求することは幸福への近道である。よりシンプルに、より本質的に、これを意識して生きることが必要だ。

出世、お金儲け、世間体のために複雑さの中を生きた先に何が残るだろうか。それを一度立ち止まって考えてみる必要がある。

できる上司ほどコミュニケーションは仕事でとる

飲み会や雑談で部下とコミュニケーションをとろうとする上司は多い。しかしできる上司は仕事そのもので部下とコミュニケーションをとる。部下の価値観や性格、キャリア志向や得手不得手など、組織で仕事をする上で必要となる、あらゆる情報を目の前の一つ一つの仕事を通じて知ろうとする。

仕事が忙しくて部下とコミュニケーションをとる時間がないという上司は多いが、部下の成長プランを真剣に考えていれば、自ずと一つ一つの仕事に込めるメッセージは充実してくる。十分な計画やプランがない上司は「いつか君も課長になったら」というような明確なイメージもできないような漠然とした未来の話をして誤魔化そうとする。

そのような誤魔化しのメッセージは部下には響かない。目の前の仕事の確かな意味、意義を伝えること。その仕事が与える影響や会社全体の価値創造プロセス、組織上の課題や解決の論点を確かに示し、部下の仕事の重要さを伝える。それができる上司のコミュニケーションだ。

残念ながら部下を鼓舞できる上司は多くない。上にゴマをすり、下にプレッシャーをかけ、そうやって成果をあげて出世する上司の多いこと。残念ながら組織とはそのような一面をもつ。このような組織は成果を上げるかもしれないが、仕事を通じて社員を幸せにすることはないし、社員も仕事そのものを通じて幸福感を感じようとは思っていない。もはやあきらめている。ただ資本主義社会はそれでも成り立つ。何ら問題はない。

しかし今、このような心や感情をないがしろにする組織にNOを突き付ける社員が増えている。若い社員の間では転職は当たり前だ。新卒で入った会社で定年を迎えようとは思っていない。もちろん大手企業や有名企業は別だろうが、そうではない大多数の会社は社員に選ばれる努力を怠れば、容易に人員不足に陥る時代になってきている。

1on1を通じて社員のニーズを探り、社員の満足感を高めようという動きも増えているようだが、そもそも普段の仕事で満足にコミュニケーションが取れない上司が1on1など満足にできるわけがない。部下の話を聞く時間のはずが、数分もたたないうちにお説教や自分語りを始めてしまう上司も多いだろう。そもそも1on1は米国シリコンバレーのテクノロジー企業が、本当に優秀な一部の天才エンジニアたちを自社につなぎとめるために血眼になって部下のニーズを満たそうと行っているものであって、日本企業に勤める普通の社員に対して、上司が会社からやれと言われたから仕方なくやっている1on1もどきとはわけが違う。1on1も、成果主義やジョブ型同様、米国の形だけをマネして失敗する日本企業の典型パターンの1つというわけだ。

じっくり本気で考えてみれば、目の前の1つ1つの仕事がどれほど重要なのか、語りつくせないほど話すことは出てくる。それができなくなっているほど職場は忙しくなり、仕事はインスタントラーメンのように味気ないものになっているのが現実だ。

仕事で満足にコミュニケーションをとれない上司が増えている現状に対して、部下の立場から何ができるだろうか。「この仕事の意味は何ですか?」なんて聞こうものなら、面倒な奴だと認定されるのが落ちである。やはり自分で仕事の意味や価値を見出すしかない。もしくは上司を社外で自分で見つけることだ。社外上司やメンターと言い換えてよい。仕事の意味を見いだせれば、やりがいは自分で生み出せる。同じ労働時間でも成長スピードや成果は上がる。市場価値も上がれば転職などキャリアアップも可能だ。上司に期待できないのなら、自分で自分を育てるしかない。そういう発想転換も一つだろう。

最後に、上司側のフォローもしておくと、もちろん上司も仕事ができるから上司になったわけだ。人間なので当然完璧ではないにせよ、1つや2つ秀でてるところがあるから出世しているのだ。部下の立場としては上司の良いところを見出し、そこから学び、上司の良さをうまく活用し、自身や仕事のために生かすことがよい。これについてはボスマネジメントという別のテーマになるので、またの機会に書きたいと思う。

”自発性”が部下を壊す。

「社会人は自発性が重要だ」「君は自発性が足りない」社会に出ると嫌でも耳にする「自発性」という言葉。この何か圧倒的な正しさを醸し出す言葉に、私も含めて多くの社会人が振り回される。

「自発性」という言葉が組織で用いられるとき、そこには目に見えない前提が隠れている。それは「”上司・組織の求めることを察して”自発的に行動せよ」という前提だ。つまり、労働者個人が自分の頭で考えて自発的に行動することには何の価値もない。価値があるのは、それが上司や組織がそのときに求めている要求に答え得る自発的な行動のみだ。

これが労働者を精神的に追い詰める。「自発的に行動せよ」と言われたから自発的に行動したのに、「なぜ相談しなかった?」「それは違うでしょう」と返ってくる。そして事前に相談したり意向を確認してみると今度は「それくらい自分で考えなよ」「指示待ちで困る」「自発性が足りない」と返ってくる。この矛盾する要求によって、どのように行動しても不利益を被る状態は、心理学で二重拘束(ダブルバインド)と呼ばれ、人を混乱させ、精神を破壊するもっとも強力な手法の一つとされる(もちろん上司のその意図はないだろうが)。

ここに”自発性”という言葉の恐ろしさがある。言ってしまえば上司が安易に用いる”自発性”という言葉は容易に、真っ当な人の精神を壊すのである。もちろん上司はそんなことを露にも思っていないのだから、部下がどれほど苦しみもがいているのか見当もつかない。そして部下が限界を迎え、休職したときに「あいつは使えない」「このくらいで根を上げて」「え、なんで?」とトンチンカンな反応を示す。

 

もちろん、社会人に自発性が必要なのは疑いようのない事実だ。上司の指示がなくとも自ら考え行動する姿勢、チャレンジ精神は自身の成長を促し、会社に利益をもたらす。それは何ら悪いことではなく、推奨されるべきことだ。これを言葉通り受け取って、何も考えずに自発性、自発性と言うものだから話がおかしくなる。

つまりは、まず労働者には明確な役割(責任)と権限(自由)が割り振られており、その役割(責任)と権限(自由)の範囲で自発性を発揮すればよいのである。言うは易し、そもそも多くの企業で社員の役割(責任)と権限(自由)の範囲は明確になっていない。言うなれば穴だらけなのだ。本来その穴は管理者でありマネジメントの役割を担う上司自身が見つけてふさぐ(組織設計する)べきものであるが、現代の上司はマネージャーでありプレイヤーでもある(プレイングマネージャー)ため、多忙を極める。本来のマネジメント活動は全体の2割にも満たない。多くの時間を業務処理に追われる。とても組織の穴を見つけてふさぐような活動には手も回らない。そこで出てくるのが”自発性”だ。「朝起きたら妖精が勝手に宿題を終わらせてくれていたらいいのに・・・」という小学生の妄想レベルの、しかし根源的で無意識の欲求が「自発性」というマジックワードを生み出す。

突き詰めれば組織に自発性は必要ない、とも言えなくはない。現に米国の職務主義(ジョブ型)では自発性ではなく、職務定義書(ジョブディスクリプション)によって、役割と権限が明確に定められ、その範囲で社員は業務遂行すれば足りる。「それは私の仕事ではない」と言えるのが米国式なのである。ただ、補足しなければならないのは、もちろん職務主義も完璧ではなく、職務経歴書に余白を持たせ、組織の穴を自ら埋めさせる余地を残している。米国式、日本式のどちらが正しいというより、意識してバランスをとることが必要だという結論にはなる。

それでも日本企業は”自発性”に頼りすぎだ。自発性を都合よく使いすぎている。そしてそれによって多くの部下が苦しでいる事実に気付くべきだ。だが、それに期待してはいないし、期待してはいけない。変わるべきはいつだって自分自身(あなた自身)だ。上司が”自発性”という言葉を用いたとき、「おっ、これは危ないな」と危険を察知しなければならない。「上司は手が回っていないんだな」「明確に指示は出せないけど何か助けを求めているんだな」と、自発性を正しく翻訳し、落ち着いて冷静にこの危機に対処しなければならない。安易に「よし自発的に頑張るぞ」などと突っ走ってはいけないのである。