先生と白い嘘という漫画が映画化された。インティマシー・コーディネーター(IC)という性的シーンにおいて俳優を守る専門家を撮影に入れて欲しいという俳優サイドの要望を監督が断ったことで炎上中だ。
原作を読んだが素晴らしい。映画はまだ観てないが、既に胸糞悪い。作品の内容が、ではない。
①監督によるIC要望拒否
②映像化にあたっての原作者の受け身な姿勢(すでに反省コメントが出ている)
③俳優の気丈な振る舞い
この三要素が原作漫画で描かれている主人公、美鈴がレイプ加害者の早藤に抑圧され続ける救われない日々と重なって見えてしまうのだ。
強い者によって、弱い者が一方的に蹂躙され、搾取される。原作ではこの弱肉強食の関係性が美鈴の成長により変化し、早藤にも更生の道を示すような希望のある展開となっており、そこが秀逸であり、希望である。
制作陣にはこれを真っ当に心から真摯に描き切って欲しかった。しかし、どう考えてもそう思えない。思わせてはくれない。そこが悲しいし、苦しいし、怒りを覚える。現実はやっぱり理不尽で私たちは無力なのだと思い知らされる。
①について、なぜこの監督なのか。IC拒否以外にも理由はある。出演依頼を10人に断られ、「はぁ、主演はれる度胸ある女優どこかにいないかなぁ。。。」とTwitter、Xでボヤき、出演を断る女優は度胸がないともとれる発言。そうだ、度胸が求められるのは心身を削って演技する俳優だ。監督は現場の最高権力者として、自らの創作意欲を俳優にぶつけるだけなのだから。この構図、主従関係。うーっ、気持ち悪くなる。
この監督は10年前に原作に惚れ込み映像化を決めたと言うが、その頃はまだ完結しておらず、この作品が描こうとした本質は原作者意外、全く見えていない。それなのに、この監督は作品の何に惚れ込んだ?レイプ被害者がレイプされることをきっかけに性に目覚め、加害者に呼び出されるまま性に溺れた?そういう解釈だとすれば、それこそ原作者がもっとも否定したかった誤った解釈ではないのか。
この作品は性にオープンであろうとか、性の目覚めとか、やくあるそういう類のものではない。性や性欲は人間の本質、本能であり抗えないものでありつつ、その本能的な性を圧倒的な強者によって蹂躙されることによる自尊心の破壊。それにより生まれた性と自己とのギャップというか、ズレというか、歪み。そこに苦悩し、目を背け、そして向き合い再生する物語なはずだ。そこに希望があった。鋭い洞察と偉大なる可能性の提示があった。それがどうだ。「ICはいらない。直接話せば伝わる。正直僕は男だから主人公の美鈴の気持ちが理解できない」監督がその程度の思いで、理解度でこの作品に向き合おうとしたのが許せない。
②原作者の受け身な姿勢について、要はお任せだったわけだ。セクシー田中さん事件も記憶に新しいが、映画監督やドラマ脚本家などの権力者には原作者といえども逆らえないという暗黙のルールがエンタメ業界にはあるように思う。本作も例外ではないだろう。原作者を責めたいとは思わない。漫画ってのはスーパーヒーローが大活躍して悪を懲らしめるから面白い。主人公、美鈴のように加害者に反撃できる人間はほんの一握りであって、大多数の被害者は泣き寝入りするしかない。しかし、この漫画原作には被害者を勇気づけ、癒し、希望を与える力があった。今もこれからもだ。ただ、今回の映像化にあたってのトラブルが水を差した。「現実はそんなに簡単じゃない。」何者かによって漫画の最後にそう書かれた気分だ。誰だよ、胸糞悪い。
ICの件は確かに当時というか今でも一般的ではない。そもそも日本人のICは数人しかいないらしい。制作サイドの言い分もわかる。だからこれ以上言い訳するな。多くの人が憤っているのは、嫌悪するのは、IC云々ではなく、そこから滲み出る強者の理屈そのものだ。「何かあったら何でも言って」「最終的に本人の意思で引き受けた」それこから滲み出る強者の理屈に嫌悪を抱く。
映画のストーリー解説にはこうある。
「 早藤を忌み嫌いながらも、快楽に溺れ、早藤の呼び出しに応じてしまう美鈴。」
ここから「快楽に溺れ」の文言がカットされた。この時点で制作陣がこの物語の本質を何ら理解していないことが明白となった。そりゃそうだ。監督の態度、姿勢を見れば合点がいく。
とある映画感想コメントを読んで納得したのだが、これは快楽に溺れているのではなく、以下引用、
「 主人公は求められたら応じていて、自ら体を差し出してるんだけど、それは快楽じゃないんですよね。トラウマを追体験したくなってしまう。情け無い自分を再確認したくなってしまうんです。」
というコメントであった。心をチクリと刺すような痛み。コメント一つで分かる。本質を理解している者とそうではなく表面上しか見ていない者の違い。
「快楽に溺れ」?笑わせるな!いや、笑えない。涙が出てくる。ほんと最悪。
③俳優である奈緒さんは「私は大丈夫です」としきりにアピールし皆を不安にさせないよう気丈に振る舞う。そりゃそうだ。ここで自身が権力の被害者に仕立て上げられれば、何のための映画?誰のための映画?原作者、原作ファン、今も性に苦しむ人たちを裏切る行為になりかねない。そんなことできるはずがない。真実はわからない。しかし、そう思うことは不自然ではない。
未だかつて、大丈夫という人が本当に大丈夫であったことなどない。憶測で物を言うなと怒る人がいるが、確かにと思う反面、そうやってこれまで弱者は声を上げられずに理不尽に蹂躙されてきた過去、セクシー田中さん事件、映画監督や芸能界による性加害問題を前に、その批判は浅すぎる。軽すぎる。
奈緒さんと美鈴が重なって見える。見えてしまう。これは本来、最も避けねばならない事態である。外からそう見えるだけならまだマシかもしれない。役者本人がそう思い始めたとしたなら最悪の事態となる。インティマシーコーディネーターは役と役者を同一化させずに切り分けるためにも存在する。現にハードな役を演じて役と同化して精神なダメージを負う俳優はおり、そうならないよう心のケアをする必要があるという。話は戻るが、今回それがなられず不十分であったわけだ。
ここまで思ったことを書いてきた。監督は自身の認識の甘さや歪みを反省して欲しいし、それを伝えられる大人がきちんと彼に伝えてあげるべきだ。謝罪コメントでは自身の「不用意な発言」に対して反省をしており、問題の本質が全く分かっていない。そこじゃないから。
奈緒さんをはじめとする俳優陣に対しても大丈夫で済ませず周囲が積極的にケアをしてあげるべきだ。
#先生の白い嘘