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私が目指す社会、生き方

私が目指す社会は、”誰も傷つき、苦しむことのない社会”だ。この社会は不条理に満ちているし、人間はあまりにも弱い。社会に出ればパワハラ、セクハラは当たり前のようにある。そこまでなくとも仕事で理不尽やつらく悲しい思いをしたことがないという人はいない。社会に出る前に学校や家庭で同じようにつらい思いをする人もいる。

誰もが明るく振る舞う。自分は幸せだと周囲に喧伝する。もちろん誰にでも幸せな瞬間や、幸せな瞬間が連続する幸せな時期というものはある。それが子供時代か、大人時代か、おじいちゃん・おばあちゃんになってから訪れるのかは人それぞれだが。しかし実際、人は幸せでいるのと同じくらい苦悩している時間も持つ。人によっては苦悩している時間のほうが長いかもしれない。幸せの絶頂で死にたいと思ったり、精神を病んでしまう人はしない。不幸だと自分や自分の人生を恨むときに死にたくなるものだ。社会や他人を恨んでいるうちはまだいい(もちろん他社をむやみに傷つけるのはよくない)。しかし批判の矛先が自分自身に向かったとき、人の心は静かに、確かに壊れてゆく。

誰も生き方を教えてくれない。勉強や就活の仕方、仕事のやり方を教えてくれる人はいるが、生き方そのものを学ぶ機会はない。自分自身で学ぶしかない。私自身も経験や他者の言葉、助け、本や映画からその時々に応じた学びを得させてもらったし、これからもそうしていく。しかし、より根源的な意味で生き方を学び身につけられているとは思わない。誰しもがそうだと思う。人生をかけて各人が意識的にか無意識的にか学ぶものだからだ。

私はこれをもどかしく思う。人生の正解を教えてくれとは思わない。ただ、理不尽で辛く、ときにこの世から居なくなってしまいたいと思いたくなるほどの人生というものに対して、もっと根源的に寄り添ったり、支えてくれるものがあってもよいと思う。この問いに対する一つのそして重要な答えは”宗教”である。それは人が社会を形成し始めたころから現在に至るまで変わることのない真実だと私は思う。ただ、世界史を紐解けば宗教戦争だったり、近年の日本でも新興宗教が引き起こした問題だったり、宗教というだけで純粋に信じたり助けを乞うたりしてよい代物ではないことは明らかである。哲学や心理学も程度の差はあれ同様のことが言えてしまう。「人生をかけて哲学を極めようとして何も残らなかった」という何かのTV番組で観た言葉が印象に残っている。もちろんこれだけで哲学が無意味であるなどというつもりは毛頭ない。しかし私たち普通の人間にとって、哲学を突き詰めるという意思が導く一つの結果として、私はこれを重く受け止めた。心理学はどうか。これも持論に過ぎないが様々な学説が意見を戦わせ、結局は学者が己の興味関心の度合いや頭の良さを競い合う一種のゲームになっているという指摘は完全に間違いだとは言えないと思える。もちろん、精神医学、様々な臨床研究が精神安定剤やカウンセリングの技法を生み出し、精神を病む人々を救ってきたことは事実だ。しかし、その恩恵を社会一般の人たちが広く受けられているかというとそうは思えない。せいぜい新聞のコラムや自己啓発本の類で、気持ちをリラックスさせる考え方やエクササイズが紹介される程度だ。

批判が多くなってしまったが、世の中に対してただ批判し続けるだけでは何も生まないし、私自身にとってもよくないということを学んだ。私自身は完ぺきな人間でも、特別なスキルを持ち合わせた人間でもないが、ただ純粋に”誰も傷つき、苦しむことのない社会”というものを望んでいる。これは叶うはずのない理想論を詐欺師のように掲げているわけではない。また総理大臣や世の中を変える起業家になって社会そのものを変えてしまおうという試みでもない。ただ、1人の人間(これを書いている自分自身を筆頭に)の心を安らかに保ち、この理不尽で辛い人の一生というものを少しでも平穏に過ごさせようという試みだ。月並みな言葉だが、社会は1人1人でできている。1人が変われば社会は変わる。嘘偽りなくそう思う(最初は社会や他人を変えるアプローチをとろうとした。しかし10年ほど試みてそれは無理だと悟った)。その筆頭に自分という存在がいる。私の最初の、そして永遠の顧客は自分だ。

日々自分自身に声をかけている。声には2種類ある。「お前はここにいる価値がない」「お前はツイてない。どうせまた失敗する」「誰もお前のことなんて分かっちゃくれない」といった、目の前に出来事に反応して過去の感情をベースに自動的に沸き起こる声だ。認知行動療法の世界では”自動思考”などとも呼ばれる(これはとてつもなく厄介だ)。それに対して「大丈夫、君には僕がついている」「相手のことをすべて理解できる人間なんていない、君も含めてみんなそうだ」「相手に期待しすぎだ。人生うまくいかないことのほうが多い。それでも大丈夫なんだよ」と心をフラットにして冷静に考えて働きかける声だ。つまりは、前者の自動思考にブレーキをかけ、後者に意識的な思考を磨き上げることこそが、自分を救い、目の前の1人を救い、そして究極は社会を変えるものだと思う。ただ、かといって認知行動療法こそが真実だというつもりはない。ただ、純粋に目の前で苦しんでいる一人の人間に対して気持ちに寄り添い、優しい言葉をかけてあげることは可能だと思っている。苦しんでいるのが自分自身ならなおさらだ。

この社会にはいつだって正解がある。上司を満足させられる人が出世するし、顧客を満足させられる人がビジネスを成功させられる。相手のニーズを満たすことこそが、この資本主義というルールの正解だ。それは誰しもがわかっている。分かっているから苦しいのだ。資本主義を否定するつもりはないし、私にそのような力はない。正解から逃れて、ただ生きているだけで何もせずとも、何も達成できずとも、尊重される瞬間があってもいいはずだ。それができるのは、(厳しい言い方だと思ったが)究極的には自分自身(あなた自身)だけだ。そうただ一人だ。